1.  石動重工社長にして「財界の女狐」ミツコ・イスルギは、本社ビル最上階にある一室に入ると、素早く後ろ手でドアを閉めた。室内に居るのは彼女独りである以上、そうする必要はどこにもなかったが、ミツコは楽しんでそれをした。奇妙な無邪気さだった。 部屋の広さは六畳に満たない。椅子と机以外に調度と言えるほどのものはなく、ただ机の上に置かれたホロ・デッキと、そこから伸びた色とりどりのケーブルだけが静かに存在を主張していた。おそろしく贅を尽くしたチャイナドレスも華やかなミツコ本人と釣り合いを取るのに、ちょっと苦労しそうな部屋だった。  社長専用の通信室だった。庶民なら呆然とする金額がかかっている。セキュリティの内容を聞けば庶民でなくとも呆然とするだろう。蟻も這い出ぬ、を地で行くものがあった。訪れる者も去る者も、社長ただ一人。そういう部屋だった。自分の父がここでビアン・ゾルダークと取引を交わしたとき、自分はこの部屋の存在すら知らなかった。 ――たかだか数年前の話なのですわね。  根っからの拝金主義であり唯物論者であった父が、はたしてどんな顔をしてあの夢想家と渡り合ったのかを想像すると、世間で言う肉親の情とやらが少しは理解出来た気がしたものだ。 「さて、と」  一脚しかない椅子に座ると、ミツコは口紅とコンパクトを取り出し、形の良い口唇に、艶やかな朱線をひく。殺風景な部屋の中心に、真紅のバラが咲いたようだった。  重要な交渉にのぞむとき、ミツコはいつもそうする。明快明晰そのものの彼女ではあったが、自分のこの行動だけは、うまく理屈をつけられないでいた。はるか昔、死に化粧をして戦場を駆けたという祖先の血が、精神の奥深い場所で昂ぶるのかもしれなかった。 もっとも、これをすれば気が引き締まるという効用がはっきりしているのだから、からくりなどどうでもいいことではある。スイッチを押せば機械は動くのだ。人間だってそのあたりは大して変わらないだろう、ぐらいにミツコは考えている。壊れたりするのも似ていた。ミツコが軽く欲の毒を吹きかけてやるだけで、たいていの人間は誤作動を起こす。機械より扱いやすいぐらいだった。  マオ社の女社長は、今のところ誤作動を起こさなかった数少ない例外の一人である。 「軍門に降れ、ということか」  半・立体映像のリン・マオの口調は、あくまで落ち着いていた。 「まあ、そういうことですわね」  わざわざ一人になって通信室まで来た理由がこれだった。役員会は、単純にシェアの拡張の一手段として、今回の吸収合併を捉えているようだったが、ミツコの思惑はより遠くにある。  ミツコが欲しいのは、マオ社の持つ異様な感性だった。戦闘機械にかけるマオ社の情念には、ちょっとたじろぐものがあり、どうもあの会社の社員は、「商品」と書いて「さくひん」と読むようなところがある。たとえば、間接部の駆動系制御バランサーを指差して「あれはなにかね?」と聞けば、「芸術です」と返してきそうな底知れなさが存在した。この異物を取り込むことで、石動は大きく飛躍できる。  問題は、妙な企業体質の大本がどうやら経営者一族にあるらしい、ということだった。 2.  リンに対して、石動と提携することでマオ社が得られる利益を滔々と並べながら、ミツコはリンとの出会いを思い出していた。  ミツコの父が健在だったとき、つまりまだ彼女が社長令嬢だったある日。 「今日はマオ社の新社長を夕食にお招きしたよ」  やや唐突に父が言った。 「あの軍隊に入ってらした方ですの?」  それくらいのことしか存じませんわ、という感じでミツコは応える。 「そうだよ。ミツコと年も近いことだし、なにかお話を聞かせていただくといい」 ――つまり、お前はただ座っていろということだな。  金にならないことなら、家族との会話に労力も割かないぞんざいなところが父には多分にあった。 「そうさせていただきますわ」 ――もちろん、あなたの前では、ね。  父はちらりとミツコの目を覗き込むふうだったが、すぐに次の話題に入った。まったく愚かな男だった。  会食はさして時間もかからずに終わった。話題はDCにまつわる不穏な情勢、月周辺の政治地図など。ホストがゲストに振る言葉には、先達ぶった厭らしさも含まれていた。しかし、まだ若い女社長は、すべてに過不足ない答えを返した。終わりごろには、リンからも経営について質問がでた。父がもったいぶった高説をぶつ度に、リンは透き通った声で 「なるほど」「参考になります」  ささやくように言うのだった。みえみえの追従だったが、父は大いに喜んだ。なにか声を交わすだけで人を舞い上がらせるようなもの、リンにはそれがあった。素晴らしい刀剣にも似た美貌がそれを引き立てていた。 ――なんだか出来すぎね。  そういう感想になる。「女社長」という言葉に込められた理想を体現しているのが、不自然極まりない。 ――きっと瑕がある。  それを探そう、と思う。ささいな事柄でいい。あらゆる情報は決して無駄にならないのを、ミツコは知り抜いていた。  完璧な作法で席を立ったリンをそっと追いかけた。  目当ての人物は、巨大な日本庭園のなかで、申し訳なさそうにたたずんでいた。  風景に馴染まぬ自分を恥じながらも、同化だけは頑なに拒んでいる、舶来の花。  浮かびかかった感傷が消えるのを待って、声をかけた。  すうっと、リンがこちらを向く。 「どうされました」 「もう少しお話をうかがいたくて」  そうですか、と頷いた。いちいち所作が絵になっているのが、逆になんだか微笑ましい。ミツコは初めて、この人物に好意を覚えた。  会話の場所と相手が変わっても、リンが知性のほころびを見せることはなかった。かえって、必要以上に飾らない人柄がよくわかる始末で、ミツコは辟易したが、リンの怜悧な仮面から透けてみえるかすかな逡巡が、かろうじてミツコを場に繋ぎとめていた。  人の隠したがる弱さを嗅ぎ分ける自分の能力を、疑ったことはない。それはミツコ自身が自由に使える、ほとんど唯一の財産であり武器だった。 「私たち、なんだか似ていませんこと?」  いかにも天真爛漫に、ミツコは笑いかけた。 「特に父親の仕事ですとか」 「似て、いますか」  一瞬、リンの目が暗い光を帯びた。獲物を狙う鷲を連想させた。 ――瑕にさわった!  ひ、と怯えた表情を作ってみせる。たちまちリンから剣呑な光は消えうせ、優しげな相貌が戻った。 「これは……失礼しました」  リンは恥じ入った。 「あの……わたくし、気に障ることを……?」  小鳥を見つけた毒蛇のように、ミツコは相手の心に近づいていく。  返事があるまで少し間があった。 「ご令嬢は」 「ミツコ、と呼んでくださるかしら」  微笑し、リンが仕切りなおす。 「ミツコさん……は、ご生家の生業をどう思われますか」 「どう、と言われましても。誇れたものではないとは思いますけれど、そのお金で育てていただいたわけですし」  武器は人を使わない。正直なところ、石動の兵器でどこの誰が死のうと知ったことではなかったが、その意見を表に出す愚はしない。 「私は父親の仕事が嫌いでした。父親自身は好きでしたから、その距離を埋めたくて軍に入った」  リンは既にミツコを見ていなかった。たぶん、永久に言葉の届かない場所に向けて語りかけていた。 「軍に入って、父への見方は変わりました。たしかにアレは、パーソナルトルーパーは、人造の奇跡です。はじめてアレに乗ったとき、自分が歴史に立ち会えることに震えた」  そういえば、元軍人は元パイロットでもあった。軍需企業に軍人上がりなど珍しくもないが、現役のパイロットは希少種だろう。 「しかし、軍の中ではアレは兵器であり、私も兵士だった。そして軍隊は何かを殺すための組織です。いろいろと、失くしました。父がああいうことになって、家業を継ぎはしましたが。アレを売ることへの迷いは、まだ残っています」  どうやら、澱を吐き出しきってしまうことに決めたらしかった。 「時々考えるのです。異星人とやらが私たちとまったく異なる、想像を絶する者供ならいい、と。そうすれば、何の疑問も持たず私は仕事に打ち込めます。たとえ、その後で人間同士の争いが待っていても。……私は卑怯者でしょうか」 「そんなことはございませんわ!」  自分で仕向けておきながら、哂いだしそうになった。少女のような潔癖さもさることながら、似た境遇とはいえ初対面に近い相手に対して、すべてではないにせよ心の内をのぞかせた無防備さに、だ。計算した上での演技なら大したものだが、そうではなさそうだった。どうやら女社長はまだ人間を信じているらしい。  ミツコは言葉を探した。幼児が持ち物に端から名前を書くように、目の前の美しい生きものの奥深く、自分という人間を刻み付けてやりたくなってしまった。悪い癖だ。 「でも、それだとちょっと残念ですわね」 「はい?」  毒蛇が鎌首をもたげる。 「だって、兵器を欲しがるのは地球人だけではないでしょう」  噛み付いた。深く、瑕に刺さるよう。  意外なことに、リンの表情は変わらなかった。ただ、社長の仮面を戦士のそれに付替えた。  リンから放射される怒気の激しさに、ミツコはちょっと恍惚とした。 「なるほど。あなたは、そういう人か」 「石動の娘ですもの」  リンが背中を向ける。喋りすぎた、いや喋らされすぎた、そんな感じの背中だ。 「これで失礼する。あなたのおかげで、自分のやるべきことがはっきりした。そのことだけは礼を言う」 「お役に立ててなによりですわ。またお会いできまして?」 「……私からはないだろうな」  軍人特有の決然とした足取りで遠ざかっていくリンが、ミツコにはいよいよ好ましく思えるのだった。 3.  邂逅の夜から数年がたち、人類社会はその様相を大きく変える。  保護者であったと同時に枷でもあった父は、戦乱の中に消えた。呆れるほどあっけなかった。  ミツコは生まれて初めて狂喜した。破壊と陰謀の季節。自分の時代と言えそうだった。  新社長ミツコ・イスルギの働きぶりは周囲を圧した。寝食どころか道徳も忘れていそうだ。くちさがない社員は陰でそんなことも言ったが、才媛の経営者としての才覚は誰から見てもずば抜けていた。  混乱の時代を、マオ社もまた、しぶとく生き延びていた。「社長」としては後輩にあたるミツコだったが、マオ社の動向を注視する目は恋愛下手な妹を見守る姉のまなざしに近いものがあった。もっとも、リン・マオにはちゃんと恋人が居る。 とくに意外でもなかった。愛ひとつ知らない子供が、企業間の熾烈な人間抗争で命脈を保ちうると考えるほど、ミツコは楽観主義ではない。  ただ、堅物のマオ社社長がどう男性とベッドで睦み合っているものやら、ミツコの個人的興味はつきない。なんとなく、立場を変えてもリンはリンでありつづける気がした。  星間戦争という人類最大の危機の中に生きながら、ミツコがミツコでしかないのと、それは同じことだった。  そうして、ミツコは話を終えた。  半・立体映像の、思い出の中よりほんの少し険しい顔つきになったリン・マオは、じっと目を閉じている。 ――いつぞやの言葉に本音でお返事を致しますわ。  自らの家業にまつわる正当性なるものを、ミツコは露ほども信じていない。他人の正当性ならなおさらだった。  そのようなものは、人間が持つ先天的な醜悪さを覆い隠すための甘い幻にすぎなかった。幻を信じ込んで谷に落ちたのでは、笑い話にもならなかった。屈折した罪悪感も、陰にこもった後ろ暗さも、大事に抱え込んだ正義への妄信から生み出される喜劇にほかならない。  真の怒り、真の喜びを捨て去った先にある、利益調整がすべてを決定する世界。ミツコ達が生きる世界はそういう場所だった。  そういう場所を、ミツコは選んで立ったのだった。  リンがゆっくりと瞼を上げた。いつかみせた、災いを運ぶ鷲の眼差し。 ――彼女は、美人ですわね。  それはどうでもいいといえばいいし、ひどく重要であるようでもあった。 「お断りする。マオ社は独立を保ち、人々を守るための力を、意思を持った人間に提供する」  まったくひどい口上もあったものだった。断るにせよ、もっとましな言葉を思いつけなかったのか、聞く側としても気をもんだ。 ――でも、それでこそ。  それでこそリン・マオなのだった。日本庭園の片隅にたたずんでいた舶来の花。所在無げにしながら、景色との同化だけは頑なに拒んでいた、あの彼女だった。 「さすがはリン・マオですわね。……どうなるか判っていて?」 「……楽観はしないが、絶望もしない。おまえが石動の娘であるように、私は毛(マオ)の娘だ」 「残念ですわ。とても残念」  すくなくとも一人は、ミツコの知る世界にもこういう人間が居たわけだった。それが素晴らしいことなのかどうかを判断する立場にミツコは身を置いていない。今、ミツコが判断するのは、倫理ではなくビジネスの問題だった。単純な話だ。利用できない相手なら、排除するのみ。これならばミツコの得意分野だった。  交渉は決裂した。思えば、始めから交わるはずもない二人だった。  ふと、ミツコの中でいつものいたずら心が動いて、通信を切る手を止めさせる。彼女にしては珍しく、思いついたことをそのまま口に出す。 「國破(くにやぶれて)商家在(しょうかあり)」  ユーモアと呼べるほどのものではなかったが、それでもリンは虚を衝かれた顔になった。  一拍あって、リンが口を開く。律儀にも返礼を捻り出したものらしかった。 「高名令志惑  重利使心憂」  流れるような中国語だった。何かの詩の一説のようだったが、詳しくはわからない。  こちらを馬鹿にしていることだけは、リンから来る笑いの波動で理解できた。 ――なかなかやりますわね。  ひどく楽しい気分になり、ミツコは今度こそ通信を切った。  通信室を出て、社長室までの廊下を早足で歩きながら、これからなすべきことを組み立てていく。  徹底的にマオ社を磨り潰すつもりになっていた。  敵対者に敬意を抱きつつ、それでも愉悦に浸りながらその相手をなぶり殺しに出来るのが、ミツコ・イスルギなのだった。 ――めちゃくちゃにしてあげる。  なにもかも失ったそのとき、リンは透き通るようなあの声で、やっぱり恋人の名を呼ぶのだろうか。 ――できれば、その場に居たいものだわ。  赤く、紅く濡れた唇の端だけを吊り上げて、音も立てずにミツコは笑った。 おしまい