まずはおことわり   思いの丈をぶち込みました。ぶち込み過ぎて闇鍋です。すみません。        百万光年の故郷        ときおり翳る太陽は、既に空の西側。  川沿いの道は、擦れ違う人影もそう多くはなかった。陽射しはもう強くはなく、けれども夕暮れの予感もまだ しばらくは遠いよう。  そんな家路をゆくのは、『じてんしゃ』なるものの乗り方を会得せんと繰り出していた皆様である。  先頭では、フォルカがヤルダバカラー(ペンキ塗り)の自転車を担いで歩く。面目ない、などと漏らすその横顔 はふとした瞬間には大人びて見え、ある瞬間には少年のようなはにかみを垣間見せる。  実をいえば、自転車の乗り方を習得できてなかったりするのだ、この修羅王様は。  名誉の為に言えば、正確には『乗れ』はする。乗って、またがったままバランスを取り、ペダルをこぎ、いざ 出陣、という段階まではクリアしている。無問題。だが、そこからが駄目だ。フォルカの場合、問題は『操り方』 なのだ。『進まずにその場でバランス保持』という、より難易度の高い乗り方をつつがなくこなす運動神経だけ に、普通に進むことが出来なかったりするのは、なかなか嘆かわしい光景である。  そんな悲劇も、なぜなら彼らが修羅だから。  おおよそ、修羅というものは力持ち。それが、慣れ親しんだ武具よりもはるかに脆弱な、地球クオリティの強 度しかもっていない『じてんしゃ』を扱おうというのだから、そこにある苦難は推して知るべし。  ちなみにフォルカの場合は、機体制御の方に影響をおよぼしたらしい。  そこはさすがに猛撃の名をもつ男、不様な転倒にはならないが……自転車にダメージを与えぬように気を配る あまり、常のようなしなやかな体裁きは損なわれ、握るハンドルはひたすらブレる。ペダルの足も、勢い余って 踏み抜いたりしないよう心を砕くあまり、逆に「踏み込みが足りん!」状態。タイヤ1回転分も前進できるか否 か、といったところである。悲しからずや。  ともあれ、そんな有り様で、本日は乗り方の会得はならぬままの修羅王様。  気合いを入れて臨んだ分、成果の上がらないままの帰途はやはり多少は切なかったらしい。良く見れば、ほん のり肩が落ちているような気配である。せっかく用意されたヤルダバ弐号(仮称)も、今はフォルカの肩に担ぎ上 げられている──ちなみに、地面を押して進ませていないのは単にフォルカの趣味。鍛練である、たぶん。  そんな彼の隣では、並行するようにしたショウコが、自分の自転車を押して歩く。前かごには、空のタッパー やら丸めた銀紙やら、お弁当の名残の入った藤バスケットが押し込まれている。  二人の間で、魔法瓶のカタコトと鳴る音。今日の特訓を反省したりしながら、フォルカとショウコの会話は、 いつもどおりほほえみ混じりで他愛も無く、和やかな限りである。  その光景のやや後ろ。  フェルナンドもまた、フォルカと同じく、自分の自転車を担いでいたりする。色合いもまた相似かつ対照的で、 マイ修羅神と良く似た機体色の、ペンキ塗りのビレフォールカラー。  とはいえ、愛機・ビレフォールMk-II(仮称)を運搬する理由はフォルカとは別だ。こちらは、配慮も遠慮もな いチャレンジ振りで、ついに機体を再起不能にしてしまったわけである。さすがは、てかげんの消費SPが100く らい掛かりそうな轟撃の男。気性の違いがこのザマだ。  だが、一応、褒めどころはある。  出だしはすいすいと快調っぽく走り出すフェルナンドではある、あるのだが、それ以降がまずい。悪い見本だ。 よいこはまねしないでね!というレベルを軽く超越している。むしろ真似る方が難しいというアレである。  一、まずは、数mも行かないうちに(彼自身の剛力による)マシントラブル。  二、転倒する機体からの離脱。すると、後方から意気揚々とラージ参上、応急処置。  三、なんとか修行は再開する。だが数mも行かないうちに(ry  ……といった様子で、状況は繰り返す。エンドレスワルツである。  しかし、終わりは何事にもやって来る。世紀の開発者の頭脳でも、補修にはいずれ限界が訪れる。耐久値が尽 きた(=HPが0になった)機体ならばなおさらどーしよーもない。非常に遺憾ではあるが、フェルナンドの自転車 は、『出発時にはボロいながらもまっとーなシティサイクルだった物体が、なぜか帰り道では折畳み自転車の出 来損ないみたいなシロモノに変貌している』という実に末期的な状況である。要するにお手上げだ。  だが、そんな再起不能な物体でも、やっぱり不法投棄して帰るのは、少々まずい。  そんな感じで、ビレフォールMk-II(仮称)の残骸は、立場も逆に、繰者の肩に乗せられている。  ともあれ。  鉄くず手前の自転車を肩に道を行くフェルナンドは、無言のまま、時折垂れ下がるゴムの切れ端を手の甲で払 う。そんな彼の頭には、カナフが落ち着き払って居座っている。意識してかしないでか、止まり木と化したフェ ルナンドの頭は、欠片の震動もしていないよう。全く、止まられ慣れているこの轟撃の修羅。動揺など微塵も感 じさせない。さらに、天下の往来だというのに恥ずかし気もない。  日常化してしまった行為、その感覚の麻痺とは恐ろしい。  そんなフェルナンドの傍らには、イルイである。ゆっくり進む自転車。薄黄金色の頭が、ペダルを踏み込んだ り休んだりして、やや遅れがちに付いてゆく。少女の白い小さな自転車の前かごでは、ケレンが胸びれをぺちり ぺちりと打ち鳴らしている。魚は魚なりに何かが楽しいのかも知れない。後ろの荷台には、子猫と見紛うばかり のザナヴがちょこんと香箱を作りつつ、頭上のつばめに視線を向ける。  そんな様子を見遣りつつ最後尾を歩いているのは、開発者組のキサブローとラージである。妙に熱のこもった 二人の会話。フレーム素材をどーだとか、マ印の機構があーだとか、限界反応が真っ赤だとか。修羅の怪力にばっ ちり適応するような、そんな自転車の案を出し合っていたりするのである。    と。   「むう」  小さな一声、フォルカが足を止めた。 「ショウコ、”ハト”だ」  指差した先には、白く小さな羽がひらひらと泳いでいく。 「うーん、ちょっと惜しかったかな? これは蝶だよ。紋白蝶。違うかもだけど──」  ショウコは、帽子の影の下でわけもなく眼を細めたよう。 「そうだったか。モンシロ、という類いの”チョウ”なのだな」 「うん。何か、キャベツでも近くにあるのかな」  せわしなく羽ばたく影は、フォルカの頭上を通り越して、土手の草むらへと通り過ぎてゆく。誘われるように その行方を見てみれば、ひとつ、またひとつと、白いひらめきが夏草の上に舞った。  誰が言い出したでもなく、皆がそこでしばし立ち止まった。  足元では、鋪装の際に食い込むようにして生えたぎざぎざの葉。綿毛を付けた茎たちが数本、足元に身を乗り 出している。川面へと続くゆるい坂には、地に伏すようにして生えている一団のシロツメクサ。向こうの方には、 ふとした風にかすかに揺らぐ細長い葉。高く背の伸びた穂先が銀白色に輝いている。    蝶たちは絡みあうように舞う。  くるくると軌跡を重ねながら、緑の上を流れてゆく。   「花や虫けら──こういうものに足を止めてしまう日が来るとはな」  常よりも大分静かに口を開いたのは、フェルナンドだった。  ああ、とフォルカが呻くように応える。 「今までだって見なかったんじゃない。すぐ、他のものに目を移しただけだ」  言って、器用に自転車を担ぎ上げたまま、足元のタンポポをひとつ手折ってみる。ふんわりと丸い綿ぼうしは、 小さな揺れ動きの中、綻びるようにこぼれて、風を受けた。  ほぐれた毛羽の数本がふわり浮き上がる。ほんの少しだけ空を飛んだ。今のフォルカたちは、それを見つめる ことだけの為に立ち止まることができた。それはならぬと告げる何かはもはや無かった。内にも、外にも。  いつのまにか草の穂と戯れていたザナヴが、ひょい、と背をひと踏みし、フォルカの空いた方の肩に座った。 そのまま獣の鼻先が頬にすり寄せられるのを、フォルカは甘んじて受けた。肩甲骨をしなやかに叩くのは、おそ らくこの獣の尻尾ではないだろうか、などと思いつつ。何となく思い付いて、ザナヴの目前で毛玉の茎を揺らす。 猫のような姿のしもべは、本能的にかお愛想か、肉球の掌で撫でるように玩びはじめる。  ザナヴの爪先が触れる。丸みを崩す冠毛。ほどけて地を転がるものもあれば、高く低く舞っていったりもする。  目を向けた空には雲が流れていた。       ●  ●  ●       思えば。  戦ってこその我等よ、この無法の荒野こそ我等に似合いよ、そう皆が口を揃えた日々。  しかし結局、覇道を往くことこそ至高だとしながら、誰もが情というものを覚えていた。  花咲く大地、鳥の唄う青空、季節のかおる風、満ちては欠ける月、そして生命の神秘。  そういったものへの慕情であり、憧憬であり、讃美であり、渇望だった。  けれども、これらの想いは戦士達の信義とはひどくかけ離れていた。  己の内から湧いて出たことが信じられぬほど、あまりに未知の、扱い慣れぬ、ある種の衝動だった。  だが、惰弱に過ぎぬと断じながら、誰一人としてその感性を捨て切れた者は居なかった。天を割り地を裂くほ どの業撃の主でさえ、たった一握の、由来の知れぬ想いを葬り去ることは出来なかった。  それならばいっそ、それらの情をあるがままに受け入れることさえ出来ていれば。    あるいは、修羅の別の現在があったかもしれなかったのだ。       ●  ●  ●     みゃあ、と丸っきり猫めいた声が耳元で聞こえて、フォルカは我にかえった。  目をやった瞬間、肩の重みが消えて、視界からザナヴの毛並みが後ろへ抜け出ていった。タンポポの綿毛はすっ かり飛んでいた。緑の柄の先には丸裸の咢ばかり。これでは、なるほど飽きたのだろう。ちいさな苦笑で振り返 る。  すると、目が合った。 「あ、あのね……」  おずおずと、イルイが申し出る。 「ザナヴ、おなかすいちゃったみたいなの」  みゃ──……ん、と脱力するような長い鳴き声。肯定するかのようなタイミングだ。これはやはり、メシの催 促なのかもしれない。 「…………」  見れば、フェルナンドの髪に足を突っ込んだカナフが、羽をぱさり畳みなおす。ケレンもケレンで、きゅうきゅ うと声を発しつつ、イルイの前籠で尻尾をぴちぴち踊らせている。異様に覇気の込められた視線。  うん、前言撤回だ。  かもしれない、のよーな曖昧な感じじゃなくて、確実に連中は腹ペコなのである。 「ふん、所詮は獣だな」  半ば鼻笑うように言ったフェルナンドである。が、その言葉が切れるか否か。  ぐー。ぐるぐるきゅー。ごろぐるきゅぴー。  彼の腹から出た音が、一斉に視線を集めた。それほどに盛大である。 「むう。腹の音か」 「フェルナンドも、空いたの?」 「そのようじゃのう。身体は嘘をつかんわい」 「ケモノだね」 「ケモノですね。まあ仕方ないでしょう、あの運動量では。  それに、お握りを食べてから大分経ってますし、何といっても彼は修羅ですから」 「くっ……ええい!そうだ修羅だ! 修羅だからすぐに腹が減るのだ! これで満足か!?」  とりあえずフォルカ(無実)の脇腹にかるく回し蹴りを入れたフェルナンド。わざとである。八つ当たりである。 ちなみに自転車(HP0)は抱えたままである。  濡れ衣なフォルカの胴が脚を受けた。ぼす、とタイヤを蹴飛ばしたかのような音を立てる一発。通常の攻撃で ある。覇気による増幅はない。痛そうな気配も起こしていない修羅王様。ちょっとイヤそーな顔だけで。 「ちょっ」  ショウコが何か言葉を発しようとしたのを、フォルカの手が控えめに制した。なんとなく事態を察したか、ケ レンはさっと翼を広げて滑空した。ラージの頭に居座る。彼も彼で動じずに、コトの行方を見守るばかり。  止める暇もなく。  ザシャアッ! もひとつザシャアッ! と、チャリンコ担いだ姿も滑稽に、空いてる手足を構える二人。 「──踏み込みが甘かったなフェルナンド! はあ!」 「躱せなかった貴様の言葉か! てや!」  べしっ。ぐぐぅ。  びしっ。ぎゅぴー。 「取りあえず腹を鳴らしながらの台詞では締まらんぞ! ぬん! とあ!!」 「それは認めてやるがフォルカ! 貴様とてそれは同じ! りゃあ! せい!!」  べしべしっ。ずごごご。きゅきゅー。  びしびしっ。ぎゅるりらー。ごるごるごる。  ぶっちゃけ二人とも重低音サラウンドで腹を鳴らしていたりする。ばっちり二重奏。ときめいてハーモニー。 打撃の音がそれに重なって、素敵にシュールな光景。そして、対峙しながらの二人の声が笑みを含んでいる。  じゃれ合いである。  しょうがないなあ、と小さくショウコが笑いながら、さりげなく通行人の有無を見た。どっちにしろ、『担い だ荷物も意に介さぬ様子で並外れた体術を駆使しつつもあくまで遊びの範囲でのマジバトルを爽やかに繰り広げ る6フィ−ト越えの体躯が往来に二つでしかも服とか髪とかかなり原色』である。ぶっちゃけ目立つ。うん、今 は大丈夫っぽいので良いとしよう。頃合になったらエミィキックで乱入だ。ひとり頷くショウコである。  訳知りの仲間のあいだで、しばし和やかな空気が流れた。    だがそれもつかの間のこと。ちょっとばかり、戯れ事の時間が長かったらしい。   「あ」  ショウコの声に皆が目をやれば。  どんがらがっしゃんごろごろがらがら。ごいん。ずさざざざざー。  釣りの帰りとおぼしき罪も無きおっさんが、自転車ごと土手を転げ落ちていった。 「あー…」  誰かが漏らした声が消えて、気まずい沈黙。  どうやら、フォルカたちのにわか演舞に気をとられている内に、コースアウトしたのらしい。これには修羅た ちも蹴り脚を止めた。怪訝な顔でまばたきひとつ、そして浮かんだ理解の表情。  今回もまたとばっちりの犠牲者を出してしまったのだ。(←斬鉄剣の人っぽく)  立ち尽くす一同であったが、ふと、異様な気配がそこに生まれる。 「ん──えい!」  声と同時に、ずざ……、と、草むらを滑る音が消えた。  瞑目したイルイが、あちらの土手に向かって手の平を広げている。念動力を差し向けたようだ。うっすらと纏っ た光がほのかに明るく、ふわり、細い金の髪が風ではないものに揺れる。向こうで、から、ころ、と聞こえるの は積み荷の集まる音か。乗り手のない自転車が起き上がる草の上、すぐ傍からおっさんの中途半端に禿げた頭が よろり見える。  ふっと息を付いて、少女の手が下りた。神秘の輝きも静かにどこかへ吸い込まれた。 「……すまん」 「平気か、イルイ」 「うん」  応えて、伏せていた淡金色の瞳を何度か瞬かせたイルイ。 「それより、誰も見てなかったらいいんだけど」  今さらのように見回した。  つられて修羅二人の赤と青の頭も揺れる。前後。左右。  大丈夫だ。  人影はあるが遠い。誰も『そういう意味』では注目していないようだ。せいぜい、河原のやわらかい草地のあ たりで、例の転んだおっさんが目を白黒させているだけだ。こちらも露見には程遠い。  ショウコの自転車がフォルカの脇に並ぶ。 「取りあえず、大丈夫みたいだね」 「しかしながら、中々、興味深い現象でしたね」  眼鏡の奥のラージの目がキラリ光る。押していた自転車の前後をくるりと向けかえ、跨がった。 「ラージ?」 「僕は、作用地点の状態を確認しに行きます。ついでに、あの男性の様子も見ておきますので」 「では、念のためワシも行こうかの。大怪我はしとらんようじゃが、な」  と、キサブローもまた自分の自転車を向けかえる。  ぎこぎこ。がたがた。  錆びた金属どうしの擦れ合う音が徐々に離れてゆく。先に行ってて良いですよ、と言うラージの声もまた、ゆっ くり向こうへ遠ざかった。入れ代わりに、彼の頭から飛び立ったケレンの羽ばたきがこちらへ近付いてくる。 「じゃ、ゆっくり進んでようか」 「ああ」  見上げるショウコに答えながら、そのつむじを乗り越えるように目をやるフォルカ。  そうすれば、イルイが微かにうなずいている。  傍では、再び鳥に居座られたフェルナンドが視線を逸らす。 「──俺は待つつもりなど最初からない。行くぞ」  言いながら、無意識にだろう、一瞬だけ幼子のちいさな自転車を気にした彼。唐突に先陣を切って歩きはじめ た。微笑んで、追い掛けるようにイルイがペダルを踏む。  二人の姿を穏やかに見るフォルカたちもまた、端から見ればほんのりとした空気を醸し出している。 「ショウコ」 「うん」  それ以上の言葉は無かった。ただ、緩やかに歩き出した。    帰り道の至る所に、息づいている緑があった。  アカザ、ツユクサ、ノカンゾウ。  ニガナ、アザミ、ギシギシ、スイバ。  指差して聞くこともあれば、ただ視線が向かうだけのこともある。そのひとつひとつのフォルカの問い掛けに、 ほとんどの場合、ショウコは答えた。可能な限り。覚え違いがあったかもしれない。だが、そんなことは今は構 わなかった。彼女の言葉の一つ一つを、刻み付けておきたかった。 「確か、食べられるんだよこれ。それからあれも。多分だけど」 「なんと」 「あ、ダメ」  思わず手を伸ばすフォルカを制する。 「ここのは立ちショ…………色々とダメ。もう美味しくないし、見た目がそっくりで毒なものもあるんだよ?」 「ぬう、先日”きうい”を口にした時に皮は残すように言われたが、そのようなものか」 「うーん。フォルカにしては、まあ、上出来かなあ」 「なるほど、心得ておこう」 「あはは。おじいちゃんの本で調べて、また来ようね」    そんなふうにしている内に。  気付けば、先を行く二人との距離が少しづつ広がってゆく。すると、少々大股で早すぎるくらいに最前線を行 くフェルナンドが、不意に止まり、そこへ屈んだ。並びかけたイルイが、なにか拾うような仕種の彼の手元を、 ちょい、と怪訝そうに覗き込む。 「……?」 「くれてやる」  立ち上がり様に彼の手が差し出したのは、半ば株ごと引っこ抜くようにむしり取られたタンポポの茎である。 まとめて握り込んだうちから一本だけを自分用に残し、あとの茎はイルイに取らせた。  紛れ込んだ葉の切れ端がはらり落ちる。  イルイは、一旦すべてのタンポポを受け取り、その束から少しばかりぎこちない仕種で一本を抜き取った。  静かに息を吹き掛ける。  その時、はかったように良い風が吹いた。  細い繊維の落下傘は、ほんの僅かな間、ひと連なりの帯を描いて流れていった。 「あ……」  驚いたようにその行く先を見た少女の目が輝き、見届け、やがて上目遣いにフェルナンドを見つめた。 「…………」 「……ふん」  彼の逡巡の表情は短かった。  にやり、不敵に笑う。覇気すら込めるような勢いで息を吸い──  吐く!  ばっ、と音までも弾けたようだった。勢い任せに吹き飛ばされた綿毛は、散り散りになってしまい、やがて、 さほどの距離を行くことなく着地するばかり。 「ち、しくじったか」  不機嫌を装った中に苦笑いが見えるフェルナンド。  はい、と次の綿帽子を少女が手渡す。今度は二つの白い帯が風に流れて、空に溶ける。  断続的に、いくつも、いくつも。  そのうちのひと粒の種が、何の因果か── 「あ」 「むっ」  ショウコの髪の上にそっと着地した。  本人よりも先に摘まみ上げたのはフォルカの指先である。    軽いその種。  いつかの天道虫を思い出す。その何分の一かの質量。けれども、この小さな粒に込められた力がある。  弱々しい、と。昔ならその言葉に渋々ながら頷いていた。だが今は違う。 「──フォルカ?」  掴まえた綿毛を見つめていれば、妙に真剣な眼差しでショウコが見上げた。 「ええと…………たぶん種は食べられないよ?」 「む、そうか。心して──…  ──ではなくて。食う話ではないのだショウコ。少し、”たんぽぽ”の底力に驚かされていた」 「え? うん。日当たりさえ良ければ、色んな場所にあるよね」  知っていた。  まだ冬の名残を残したころ、あれはなんだ、と指差したぎざぎざの葉。今日のように、その名をショウコが教 えてくれた。そこを通る度に黄色い花が増えていた。それまでの自分にとって自生する草とは、潰して傷口に貼 るもの、病の時に煎じて飲むもの、そういうものでしかなかった。あのように草遊びをしたことなど今までなかっ た。それが出来るほど豊かな野原も、おそらく、初めてではなかったか。 「どこの土の上でも、育つのだろうか」 「え」  フォルカの振り向いた先には、花を付けたもの、蕾のもの、ようやく伸び始めたもの、様々な草木があった。  薬になるもの、食に向いたもの、よい土をつくるもの──可憐に花をつけるもの。  ここまでの道のりを歩きながら、ショウコに解説された何種類もの草花。  青年の手の内に、タンポポの種はひどく大事そうに握り込まれてしまっていた。 「ええと、種を取りたいの?」 「ああ」  道端の小さな花のひとつに目を向けたまま、静かな調子でフォルカは言った。 「取って、撒いてみたいと思う。いつか俺たちが辿り着く場所に」 「……ん……」  はっとしたようにショウコが目を見開く。だが、そのあとは曖昧に笑って、ゆっくりと応える。  いつの間にか二人の足は止まってしまっていた。  フェルナンドとイルイの背中が、少しづつ離れてゆく。 「──長い旅になるかもしれない」 「うん……でも、あんまり遠くにならないといいのにね。三日ぐらいで行けるところだと良いのに」 「それは俺も──」  言いさして、急にフォルカは困惑したように視線を彷徨わせた。次の言葉が続かない。  喉まで出掛かった『うんと、近くに──』を辛うじて堪え、胸の内に転がり出てきた感情を噛み締めた。する と急に合点がいった。今まで判然としなかった好感めいた心地に、やっと正しい呼び名を見付けたのだ。  だから彼は、今の精一杯の言葉で告げようとした。 「だが……どんな離れた場所でも、ここで出会った草花と共に在り続けられるならば、悲しくは……ない」 「そうだね……そんなに寂しくならないよね。場所が違ってても、一緒に同じものを見てるんだもん、ね」 「……ああ」  途切れた言葉。  せり出したイネ科の雑草の葉の上で、まだ幼いカマキリが、無闇にフォルカを威嚇している。     季節は巡った。  出会った頃のような夏の日がもう一度訪れようとしていた。  なし崩しに始まった形での、不思議な共存ぶりではあった。騒動に事欠かない毎日だった。  たかだか一年。正確に言えばそれにも満たない短い間だった。  それでも、生きてきた全ての時間に匹敵するほど濃密で、何物にも代えがたい時間だった。  晩夏。  ヒグラシの歌を聞きながら、部屋を整えたあのはじまりの日々。  新しい住人の所持品ははじめは驚くほど少なかった。だが、次第に増えた品々で隙間が埋められていった。粗 品のタオル、安売りの着替え、半額で手に入れた文房具。食器棚にもそうだ。フォルカのための塗り箸、茶碗、 湯呑みが増え、時に壊して入れ替わった。そして、食器は半月もしない内にもっと必要になった。蔵出し品では 賄い切れず、連れ立って瀬戸物屋へと足を運ぶ。なぜか箸置きばかりを籠に入れるラージ、お花のスプーンはショ ウコとティスがお揃いで、アイビスは夫婦茶碗の前でだいぶ立ち尽くしていた。ふと眼に留まった一輪挿し。ま とめてお会計する。帰ってすぐ、ショウコはちょっと迷って桔梗の花を活け、居候の部屋に忍び置いた。  秋。  錦に染まった葉を踏んで、高鳴く百舌の声を聞いた。  双眼鏡もそのままに、アラドが「青くない!?」と声をあげる。粗忽にも、何度も鳥たちを飛び立たせる。そ の度ごとにゼオラが締め上げ、また鳥は羽ばたいてゆく。ラトゥーニが小さくツッコみを呟く。どこからか金木 犀の香りが漂っていた。一面に頭を垂れる稲穂は金色に波打っていた。駆り出された修羅兵は、男も女も鎌を手 に初めての刈り入れに血沸き肉踊る様子。いかにも、といった感じの『田舎のお婆ちゃん』が、分ってるのかそ うでないのか、助かるねえ、養子に来んか、と誰彼に声を掛けていた。しばらくしてその時のお米が送られてき た。一緒に届けられたイナゴの佃煮はフォルカの新たな好物になった。  冬。  吐く息も白く、雪あそびをした。  炬燵の魔力よりも銀世界の魅力が勝ったある日の朝。雪と言えば烈風とともに身を叩くものしか知らなかった 修羅たちは、しばしその柔らかさに言葉を失い、けれども心奪われたのは間もなくだった。雪合戦は、はて、どっ ちに軍配が上がっのだったか。雪まみれの身体に甘酒が心地よく染みる。縁台のそばでは、キサブローがティス たちに雪うさぎを作ってみせる。南天の赤い眼はコウタが付けた。どう見ても雪ネズミにしか見えない一匹は、 おそらくフェルナンドの作品だった気がする。  春。  花冷えの夜空の下、帰り道を歩いた。  頭上の星座を珍しげに見上げる。見なれぬ形だ、と口火を切ったのはメイシスだったろうか。地球へと降り注 ぐ星明かりは、春霞のせいか、どことなく優しい光だった。北半球の煌めきに眼を奪われていたカーラは、やが て次々に指差しながら、ユウキの腕を取ったよう。二つの影が近付いて一つになる。聞くともなく星々の呼び名 が耳に入る。あたたかい色のむぎ星。清らかに光るしんじゅ星。高く連なるひしゃく星。  そして、梅雨の終わり。  連なる雨雲が最後のあがきを見せようとしていた。  夏服はもうすっかり出し終えている。紫陽花の葉の上の蛙。ジャーダの家で父の日パーティをした。食通さん の虎魚の唐揚げ。手作りのところてん。次の日曜日には例のお婆ちゃんのところで田植えを手伝うことになって いる。海開きはもうすぐで、あっという間に星祭り。それが過ぎれば、ほおずき市も間もなくだ。  けじめを付けるには、わかりやすい契機なのかもしれなかった。    視界の端をトンボの銀色の身体が通り抜けて行った。 「今日や明日にではないが──いずれ発つつもりだ」 「……持って行きたいものがあったら何でも言って。でも、お箸と茶碗はダメだよ。あと、着替えもね」 「そうか……そうだな。ありがとう、ショウコ」 「ん」  目線を落としたままの彼女が数歩だけ進んだ。ちいさく小石を蹴ったよう。力無く転がるつぶて。 「ショウコ──」 「うん」  振り返らないままの背中に、フォルカは言葉を掛けた。 「──大好きだ」 「……っ」  こっちを見た頬が濡れていた。  一瞬遅れて、慌てて手の甲で拭うショウコ。まっすぐ見詰め合った。続きを言った。 「俺はこの世界の人たちが好きだ、」  そこで思いきりショウコの上体にコケが入った。はっきり分かるほど。でも構うどころではなかった。 「ここの皆と過す日々が大好き……だった。楽しかった。けして忘れない。取り分けに素晴らしかった時間には、 必ずそこにお前が居た。大好きだ、ショウコ。一番好きだ。ずっと、ずっと、大好きだ。これから先、何処へ行っ ても、ショウコより好きなものなんてない」  気が付けば、勢いのままにそこまで言った後だった。そんなつもりで口を開いたのではなかった筈が。   もしかすると彼女は途中で何か言おうとしたのかもしれない。けれども気付かなかった。本当にそれどころで はなかった。いつのまにかそんな余裕もなく口走ってしまっていた。  息が切れるような気さえした。半端な闘いなどものの数ではなく、遥かに心が昂り、踊り、揺れた。  そしてようやく動揺を抑えれば、見て取れた。 「…………っ」  ショウコが──何と言うか、すっごい顔してるんですが。何か言いたそうにして。  信じられないものを見るような目でフォルカを見ていた。いつかの旅先、混浴風呂で鉢合せしたのと同様にし て、まじまじと言葉もなく見詰めてきていた。ただし今回は股間ではなく顔面をだが。  赤面しつつ。ゆっくりと息を吸い込む彼女。 (しくじったか……?)  そう思えば、不思議なほど彼の胸は疼く。不安を覚えたことを自覚したとたんもっと不安になった。  だが、ショウコは微笑んだ。 「ショウコも……好き。フォルカのこと大好き……いっちばん好き!」  呟くように始まった声が、ハッキリと言い切られた。  その瞬間、フォルカは理解した。  先ほど自分の口走った言葉がどんなに強い作用を持つか。なんと気恥ずかしい。なんと喜ばしい。火照る頬は もちろんとして、どうにも表情が止まらない修羅王様である。どうやっても笑顔になる。  それはショウコも同じようだった。ただ、彼女の方がこの状況を落ち着いて受け入れているらしい。躊躇うこ とも隠すことないその笑顔は、ある種、清々しくさえあった。 「そろそろ……帰ろ?」 「あ、ああ」  差し伸べられた手を取るようにして、また並んだ。  西の空では太陽がぼんやり霞んでいる。明日からはまた雨が降るだろう。    結局、その日は話は有耶無耶になってしまった。  冷たい麺が出されることが増え、庭先を彩る花がどんどん夏のものになってゆく。「見せてあげたい」とショ ウコが言っていた祭りの日は、一日、また一日と近付いていた。  段々とフォルカは、もう一巡りの季節を過しても良い、と思うようになっていた。旅路を共にしたいもの、新 天地で共に根を下ろしたいものは沢山あった。連れてゆけないものは、せめて持てる限りの思い出を連れてゆき たかった。  どっちにしても、本当の別れの日は必ず来るだろう。  だが、幾多の銀河を越えた場所で、ショウコが教えてくれた花を咲かせてみたいとフォルカは思う。  そして叶うことならば、そのもう一つの約束の地に溶け合った花園を見てもらいたい。  そう思うのだ。       だいぶ読みにくい筈ですが、ここまで読んでくれて感謝です。  おまけ フォルカたちの後方、気を利かせた科学者たち ラージ「──ついにあの朴念仁も告白ですか。興味深いですね」(小声) キサブロー「うむ。『大好き』としか言えんあたりが、フォルカらしいのう」(小声) ラージ「しかし、一度きりの『愛してる』よりも、無数の『大好き』の方が効果的な場合もあります」(小声) キサブロー「……フィオナじゃな?」(小声) ラージ「黙秘しますけどね、その件に関しては」(小声) 以上で終ります。